写真論の本を読むことにしたお話

こんにちは、SNS上で書くにはあまりにもマニアックというより専門的な領域を超えている気がしたので、ブログに書き記しておきたいと感じ、キーボードを打っています。

私の中で、写真の真意について考える瞬間が今までに何度もあったのです。その発端としてはSNS上にアップされる無限に広がる写真の山。風景写真とかが顕著で、ここでこんな綺麗な写真が撮れる。それをトレースしSNS上にアップする。

その写真の価値は、最初にSNSにアップした人はその景色を人類で初めて写真に収めたという証拠があるわけでもなく、またSNS上で見てトレースしたその人にとっては、どういった状況において同じような瞬間を写真に残すことが出来るのか、など自分の中に吸収していく術の一つとして成り立っている。こういったイメージが私の中ではあるのです。

そもそも写真ってなんなんだ

写真論の本を読んでいて気持ちが動いた言葉は「今見ているのは、その光景を見ている眼である」

写真って正解のないものとしての芸術で、作り込むこともあれば偶発的に起きた情景を事実として切り取る、それ以上でも以下でもない。私たちは写真を見たときに、そうそれ、ほら、これだよ。といった目の前にあるものを如実に表すツール

見る人にとって写真の価値が変わる

私もフォトグラファーとして働いている中で、クライアントさんの依頼をいただいて撮影する機会が多く

その人たちにとっては「この写真が社運をかけているんだ」と未来へ向けて仰られることや、「私たちの思い出の1日を残してくれてありがとう」と過去を残すために撮影している。

前者のパターンで言うと、クライアントが求めている写真を大前提として撮影するのですが、その写真を第三者が見たときにどれだけ目を惹く1枚になっているのかを私は施工の際に常に考えているのですが

作り上げなくても写真から語りかけてくるものがあるのか、イメージを付けるためにお互いが努力をし作り上げたものなのか。この辺りが写真論の本に記されていて読んでいて楽しさしかない。

後者は結婚式や七五三が例として一番適している気がする。この写真はその日を記録する媒体の一つとして写真が存在している。

優劣なんて存在せず、どちらも写真であることに変わりはない。

ただ、その写真は無秩序な好みによって評価されると言うこと。

だからこそ私は写真が楽しいと感じるんだと思う。

写真そのものに目をむける機会

私が読んでいる部分については今日のところはこの辺りまでなのですが

大体の人は指向対象(被写体)を探そうとする、それほどまでに写真に密着した存在、写真そのものは目に見えない。

写真は記号。

技術に目を向けた本は記号への理解を記すため距離が非常に近く

写真の歴史や社会を本で見る場合は記号を非常に遠い視点から見ていく

どんどん読み進めていこうと思います。

写真論を読んでいて

私は学生時代、ろくに勉強をしてこなかった。それは写真に関することではなく、主要5科目含めほほぼ全て、「学校にはいたけど授業には出ていない」そう親が先生に言われた。と

社会人になり、勉強をしてこなかったことを悔やむ瞬間は確かにあった。それでも生きていくことはできた。

今の年齢になり、写真業を志し、実際に行なっている。写真館や現場での実践値は知識含めてそれなりに知った気でいたけど

この写真と言うものに関しては、専門学校などで座学で行なっているような講義や写真論について知るのは必須だと思う。

多分ファインダーを覗いた瞬間、シャッターを切ろうとした瞬間に見えているものに差が生まれる。

また読んだ感想を気軽に記していこうと思っているので、もし見てくれた人で興味があるようでしたら出来る方法でリアクションをいただけたら励みになります。

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